『史上最強の哲学入門』 by 飲茶
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読んだ日:2020/04/09 - 2020/04/12
☆総合:4.2
人生への影響度:4.0
新しい気付き:3.0
分かりやすさ:5.0
深さ:4.5
他の人におすすめ:4.5
目次
第一ラウンド 真理の「真理」
第二ラウンド 国家の「真理」
第三ラウンド 神様の「真理」
第四ラウンド 存在の「真理」
感想/考察
全体的にすごく分かりやすくて哲学を習ったこと無い人間にもわかりやすかった。思考の系譜みたいな流れがつかみやすい。
第一ラウンド 真理の「真理」
真理は飽和したなーという感じ。この本にもあるが、不確定性原理/不完全性定理の「発見」によって、線形に見えた科学の成長にも飽和点があることが判明した。それによって物理的な真理には到達し得ないことが証明されてしまったのだから仕方がない。そもそもこれがなかったとしても、発見された「真理」を誰も正解だと証明できない(間違っている可能性があるのだから、誰にもわからない。例えば神が現れて正解だと言ってくれたとしてもそれが神だと証明できないし結局同じこと。)のだから、真の意味で真理に到達することは原理的に不可能なのだ。「人間はモノ自体には到達できない(byカント)」。(到達できないということはわかったが、真理追求の意味があるのかどうかという命題はまた別。)
しかしそもそも「真理」というコトバ自体定義が曖昧だ。宇宙全体/現象としての世界のルール、自然の摂理/モノ自体といったもの(中世くらいまではここに神を含んだのだろうが…)を真理だと定義するのならば、それに到達できないことは証明されてしまったので、これについては結局その限界に達するまで精進する以外にない。私はこの自然の摂理/モノ自体のことを物理レイヤと呼んでいる。これはそこにあるだけのものであって、観測し、ルール(全空間、全時間を観測できない以上ルールっぽいもの、にはなってはしまうが)を見つけ出して行くことしかできない。
だが、結局真理を追い求める原動力は、なぜ生きるのか、と、どうやって生きたらいいのか、に解答を与えることではないだろうか。つまりヒトは今まで、世界のルールを知ることによって、その中に自分の意識が存在する意味を、そしてどうやって生きればいいかを見出そうとしてきた。しかし、信仰や科学の中に生きる意味を見出そうとしてきた人類は、ここで「意味」というもの自体が、人類の発明品であることに気づかねばならない。というよりも、人間の知覚・主観・意識が発生した瞬間に、そして世界を解釈しようとした瞬間に意味が生まれる(解釈しなければ、世界は存在しているだけで、そこに意味はない。まあ解釈というコトバも曖昧っちゃ曖昧だが…)。ゆえに意味は意識に依存し、なぜ/どうやって生きるのかということもその意識に依存してしまうのだ。つまり、真理の解釈は意識に依存している。いや、真理は意識の数だけある、と言えるのではないか(まあ真理の定義次第なんだが…)。この真理(?)を私は物理レイヤから分離して、主観レイヤと呼んでいる。この物理レイヤと主観レイヤをいっしょくたにしていたからこそ今まで混乱が起きていたのではないだろうか。
だからつまり私は、物理レイヤについては引き続き科学等の力で解明を進めたいし、主観レイヤについては「大事なのは僕の真理(byキルケゴール)」なのではないかと思う。そして、意味が意識の発明品である以上、生きる意味というものも、意識によって発明できる、いくらでも定義可能ということになる。
ちょっと途中の論理はしょったからよくわからんくなっとる…笑
第二ラウンド 国家の「真理」/第三ラウンド 神様の「真理」
考えてみると、そもそもあまり国家というものについて考えたことがなかったな…おそらくその必要があまりないからだろう。世界は比較的平和だと言えるし、特に日本なんて至って平和だ。細かい愚痴はあるものの、政治も一応機能している。国家の運営が私生活にあまり響かなくなっているのだろう。
これを覆して君主制に移行する程の状態になるのだろうか?今は想像できないが、この均衡が崩れる時が来るのだろうか。いや、国家はより緩やかな共同体となり、個人が力を持ち始めるのでは?
今は、全てが個人の時代に移行している。その最たるものは神だろう。もともと神は自然の中にいた。それをそのまま維持したものもあったが、ある時どこかの個人が神を定義した。その後一部の階級が神の解釈を独占し(キリスト教で言えば、昔は神父だけが聖書を理解できた。そもそも聖書自体が貴重だったし、ラテン語しかなかったために理解するためには知識を必要とした。日本でも仏教は一部の特権階級の来世のためのものだった。私個人的には仏教は宗教だと思っていないが。)、技術の進歩があまねく人が神を理解することを可能にした(活版印刷によって聖書は庶民の手に渡ったし、日本でも大乗仏教が広まった)。しかしそうすると、かならずその教えに対して違和感を覚える層が出てくる。なぜなら個人が、そういった違和感を覚えるだけの知識を身に着けたからだ。そして今は、個人が神(哲学)を定義する時代が来ている。
完全に個々人が神(ここで神とは神を意味しているのではなく、なんというか個人の生きる指針/哲学みたいなものを前時代における神の置換的な意味で神と言っている)を定義するのが理想だが、すべての人にそれができるとは限らないし、その必要もないだろう。神が定義できれば偉いわけではないのだから。だから神が必要な誰かが神を定義し、それに近いと思う賛同者が緩やかなコミュニティを形成する。神の浮気も許可される。そんな時代が来るんじゃないだろうか。
なぜ一神教がここまで流行ったのか。それは、この世に本質的な善などないからではないか。結局全てが定義の問題なのだ。だとすれば「これが善だ!!!」といい切れるやつの方が”強い”に決まっている。これもいいかも、あれもいいかもみたいな多神教の姿はごくごく自然なのだが、”進歩という善”に一目散に向かうためには、ただただ一つの善を定義してくれる方がよかったのだ。欧米諸国がこれだけ発展したのは”強かった”からではなく、”強さの定義”が強烈だったからに過ぎない。その善への狂信的な信頼が人類を”前へ”進めたに過ぎない。
第四ラウンド 存在の「真理」
ソシュールの話めっちゃすごいやん…映画みたい。
言語学は今まで全く触れてこなかったけどちょっと興味あるなあ…言語っていうのは人間のWhyとかHowに答える時に意外と本質的な存在なんじゃないか?
「あなたが見ている『世界』とは、あなた特有の価値で切り出された『世界』であり、その『世界』に存在するものはすべて、あなた特有の価値で切り出された存在なのである。だから、あなたがいない『世界』が、あなたが考えるような『世界』として決して存在しないし、継続もしない。」
モノ自体に価値はないし(ペシミスティックな意味ではなくて、そもそも価値という概念がない)、『世界』とは主観によって存在する。誰かが死ねば、それは一つの『世界』の終わりである。それぞれの個人が(というより主観が)、それぞれの『世界』の神であって、人間はそれに気づかねばならない。いや、再発見、という方が正しいだろうか。